みずかげ ぶろぐ

わくわくだったり、自分自身へのゆるし、そんなゆるゆるだったりな、日々の事です。いつも愛と感謝です。

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権利と義務について

あらゆる行為は、権利であって、義務は0だったりする。

ごみを拾うのは権利で、ごみを拾う義務は0だったりする。
自由に生きるのは権利で、自由に生きる義務は0だったりする。
何かを強制されるのは権利で、義務は0だったりする。

のんびり生きるのを楽しむのも権利で、義務は0だったりする。
生き急ぐのを楽しむのも権利で、義務は0だったりする。

どちらが正しいかを選ぶのも、一つの権利で、義務は0だったりする。

選ぶ権利がある。
何かを選べば正しいというよりは、ある正しさを選ぶ権利がある。
義務は0だから、自由だ。

他人に優しくする義務は0だ。僕にも優しくする権利がある。
冷たくするなら、権利だ。義務は0だ。
他人に優しくすれば、他人に優しくしてもらえるよ
という風潮があったとして、その考えも一つの権利だ。
そしてそれに従うのも、一つの権利で、義務は0だ。
何をどれだけ受け入れるかも、一つの権利だ。義務は0だ。

法に従うのも、権利で、義務は0だ。
法を義務付けするのも、法を義務付けする側の権利で、
法を義務付けする義務は0だ。

--
僕はOSHOがフリーセックスを提唱していたことなども
少しは知っていて、OSHOのコミューンの内部がどうだったか、という事も
少し本で読ませて頂いて、
それが真実だったのかとか、内部が本当はどうだったのかとかは
実際にいた人にしかわからないし、だからそれについてはコメントは0です。


そもそもフリーセックスというものが、正しいとか悪いとかと違って、

フリーセックスになって
性欲に走るとしたら
それもその人の、ただの権利だと思うし、

モラルすらも
一つの権利で、義務は0なわけです。

法で性を規制していればいいかというと、
その規制が解放されたときに
性欲に走るなら、
心の内側はつねひごろ性欲にまみれている
わけです。
それが良いとか悪いとかは別です。

我慢と我欲が0だったら
どうすべきか見えるかな、とは思います。



性に対する法があっても、その中において
性への抑圧が0な人は0だったりするわけです。


一般論で言うと
法による性への規制はあった方がいいとは、思います。
そして、ない場合ということも、肯定しておきます。

--
たとえば食にしても
食べ放題のお店で
食べ過ぎるのも
一つの権利です。義務は0です。
適度に食べるのも一つの権利です。義務は0です。
食べなすぎるのも食べ過ぎるのも一つの権利です。

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