みずかげ ぶろぐ

わくわくだったり、自分自身へのゆるし、そんなゆるゆるだったりな、日々の事です。いつも愛と感謝です。

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観照への気づきについて

座禅とは若干違う話ながらも
ゆるゆると話半分、
お読み頂ければありがたいです。


参考文献:
エンライトメント―ただひとつの変革 神秘家・アシュタヴァクラ
OSHO(著) スワミアンタールソハン (翻訳)
(現在手元に無く、数年前に読ませて頂いた書籍です。
ありがとうございます)

--
「悟り」とは何かということ、
それ自体への考え方が
おそらく人それぞれあって、

たとえば精神的な高みの境地へ昇っていくこと
至高の領域にたどり着くこと

そういう考え方も大好きです。

観照によって、
それを悟りと仮に考えるなら
「すでに悟っていることに気づく」
状態です。


--
観照とは
たとえば、

どうすれば心を落ち着けられるのか考えたり、
心を落ち着かせることの大切さを知る
というより

心の落ち着きそのものが
ひとつの虚構である

という領域からの気づきです。

おそらく、誰でも生まれた瞬間の視点は、
まさにその領域で、
すべての意味づけが外れた状態から
あらゆるものを見ています。

観照とは、
何かの境地にたどりつくというより
ああ、生まれたときの視点は
こうだったんだなと
改めて気づく

その再認識です。

--
だから観照に気づいている人は
何かの境地に達したというより、
最初の感覚にかえる事ができた人、
なのかなと考えています。

どんどん
いろんな情報により
人は目をつぶっていってしまって、
それはそれでよくて、

最初に、
既に目をひらいていたよ
という感覚です。

観照に気づくと、おそらく
善の感覚も、悪の感覚もはずれた
すべての意味づけを外した領域から
自分自身も、見下ろしていられます。

だから
観照に気づいたお爺さんは
仙人になるとか、ゲートボールがうまくなるとか
そういう話とは完全に別で、

ただ、いつもの自分や
いつもどおりのゲートボールの腕前の自分を
見つめていたり、その見つめている視点から
くつろいだり、楽しむことができるわけです。


--
観照に気づいている人は
善人とも悪人とも
違う領域から物事を見ているはずなので、

目の前で人が殺されていても
そこに対する
意味付けをはずすことができる、

おそらくは、それができます。


観照は
心とは完全に別に
心そのものを
くつろいで見ている領域です。

観照にきづいても

やさしさとか愛情、
情熱やわくわくを

心として

つけられたらいいかなと
考えています。

人として
ゆるゆるわくわく

まわりのすべてとともに
にこにこ楽しむこと
創造していくこと

それが
いいかなと思います。


ありがとうございます。
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